東京地方裁判所 昭和29年(タ)195号 判決 1955年11月25日
原告 河野銀子(仮名)
右代理人 瀬崎憲三郎
被告 河野誠一(仮名)
主文
原告と被告とを離婚する。
右両名間の長男馨(昭和一二年三月一一日生)、次男慶二(昭和一三年一〇月二四日生)の親権者を原告と定める。
訴訟費用は被告の負担とする。
理由
公文書であつて、真正に成立したものと認める甲第一号証(戸籍謄本)、原告本人尋問の結果を総合すれば、原被告は、昭和八年一〇月ごろ事実上婚姻し、昭和九年四月二日その婚姻の届出をしたこと、右両名間に同年一〇月二二日長女春子昭和一二年三月一一日長男馨、昭和一三年一〇月二四日次男慶二、昭和一八年六月二四日三男秀雄が出生したことが認められる。
そこで、右婚姻を継続しがたい重大な事由があるかどうかの点につき、考える。成立に争がないので、これにより真正に成立したものと認める甲第二ないし第五号証、第六号証の一、二、第七、八号証に証人飯村ふじ、江橋貞二、奥村奏雄、石原幸子、河内適の各証言(ただし、証人河内適の証言のうち、後記採用しない部分は除く。)に、原被告本人尋問の各結果を綜合すれば、次の事実を認定することができる。すなわち、被告は、青山学院専門部商科を卒業後日本鉱業株式会社に勤務し、その間原告と婚姻したのであつたが、昭和二〇年八月の終戦当時同社を退職し、その後約二年間電元工業株式会社の顧問に就職したけれども、これまた失職し、ついで、同社の製品の販売その他各種ブローカーをして漸く生計を立てていたが、昭和二三年ごろからまつたく失業し、收入を得る道が絶えたので、原告は、昭和二三年一一月二九日から埼玉県北足立郡朝霞町所在のアメリカ軍関係の第五百軍事情報団に飜訳係として勤務し、その收入で原被告ら家族の生活をまかなうに至つた。そうして、原告の継母であり、その幼児から原告を成育した飯村ふじを水戸市から呼び寄せて家事を委ね、原告は更に都内渋谷区にある東京日本語学校夜間部講師に就職したが、被告は、その間にあつてついぞ定職に就こうとはしなかつた。すなわち、原告の妹婿にあたる奥村奏雄は、昭和二四年一一月ごろその勤めさきの慶応義熟の英語科教師の職をあつ旋するため被告に申し出たが、被告はこれに応ぜず、また、同人が昭和二八年一月一五日履歴書を作成するよう被告に求めたけれども、これまた、応ずるところとはならず、その他親せきの者らがこもごも就職の口を持つて来たのであつたが、被告は、気に入らない、適職でないとの理由だけですべて拒絶し続けた。かようなわけで原被告の家計は、原告の右勤務の報酬に依存するほかなかつたので、原告は、過労のため心臓ノイローゼ症、貧血症等の病気を発し、また坐骨神経痛をわづらうなど、数次にわたり病臥したがこれらを押してもなお勤めに出るほかないありさまであつた。
他面、被告は、原告に向つて直接、「夜なにをしているのかわからない。パンパンでもして金をもらつて来ているのだろう。」などとの暴言をはき、来客に対しても同様なことを言いふらし、また、たとえば、二男慶二がラジオをいぢつていたとき、「ラジオ屋になるわけでないだろう。」と云うなど子供にまで悪態をつき、結局慶二はじめ前述の子も被告には寄りつかなくなつたばかりか、遂に慶二は「あんな父は殺してしまえ。」と口走り、はさみようのもので、被告に立ち向つたことがあるほどになつた。原告の被告に対する愛情もまつたく冷却し、双方が互に反目しあう日が続いたので、原告は、昭和二九年三月ごろ離婚の調停を東京家庭裁判所に申し立て、同裁判所で同庁昭和二九年家(イ)第六五七号事件として係属し調停が試みられたが、その際当事者をして熟慮せしめるために、期間は昭和二九年六月一〇日から暫定的に三ヶ月、その後は事情に応じて期間を延長する旨の定めで原被告は、別居することと定められ、以来別居生活に入つた。しかし右別居は、原被告を和解させるのになんらの効果もなく、右調停は不調に終り、原告は現在、被告との離婚を飜意する意思はなく、その肩書住地所で前述の子四名及び飯村ふじと同居し、その手もとから馨、慶二をそれぞれ高等学校に通学せしめている、以上の事実が認められる。
ところで、被告は、就職するにも適職はなかつたと主張し、なるほど被告が失職したころから引き続き現在に至るまで一般に極めて就職の困難な社会状勢にあることは公知の事実であるし、ことに、甲第一号証によれば、右失職当時、被告は満四三才に達していたことが認められるから、前示のようにあつ旋された職は被告の希望する職ではなく、他にその様な職が得られなかつたものと推認されるけれども、家族の困窮をよそに提供された職の口に応じなかつたのは、被告の恣意であるというほかなく、なにびとがみても被告の就職拒絶は不当であり、理由がないことは明白である。これに加えて、被告の右失職は原告が右調停を申し立てるまで前後ほぼ五年を経過しており、原告に悪態をついたのであるから、原告が被告に失望したのは当然であるし、その愛情が完全に冷却したのは、ここに原因するのであり、子がすべて被告から離反したのもかような被告の態度を現認したからにほかならないものと認められる。証人佐枝富士子の証言のうち、「被告と原告並びにその子との間が不和になつたのは、被告と飯村ふじ間が不和になつたので、原告がその立場上困却したことに起因する。」との趣旨に帰着する部分、証人河内適の証言のうち、「子供らが被告から離反したについては、原告においても重大な過失があり、その責任の一半をおうべきものがあつた。」との供述部分は、右に述べたようなわけであるから、ことの真相に合致しないものと認められ、他に認定に反する証拠はない。
もつとも、被告本人尋問の結果によれば、被告は、現在もなお、原告はじめ両名の子に愛着を持ち、共同の生活を望んでいる事が認められ、証人池橋貞二の証言、弁論の全趣旨によれば、被告は、昭和二九年末ごろから鉱業経済に関する雑誌を主宰し、自活するに足りる生活の資を得ていることが認められるが、他方、前示認定事実全般を通じれば、原告及び右の子の被告を嫌う感情は、既にその内心に固定して動がしがたいものとなり、被告との別居生活も安定していることが認められるから、被告と共同の家庭生活はとうてい維持しうべきものではないと認めるのが相当である。
以上述べたような諸般の事情は、総合して、民法第七七〇条第一項第五号にいわゆる婚姻を継続しがたい重大な事由がある場合にあたるものというべきであり、甲第一号証によれば、三男秀雄は、昭和二一年三月五日原被告両名の代諾により飯村ふじと養子縁組をしたことが認められるので、前述認定事実に徴して民法第八一九条の規定に則つてその余の子のうち未成年者である長男馨、二男慶二の親権者を原告と定めるのが相当である
そうすると原告の本訴請求は、正当であるからこれを認容すべきものとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 加藤令造 裁判官 田中宗雄 間中彦次)